Design of everyday life(自分らしい生活をデザイン)

Life-Design , Self-management , Interior , Book etc..

子育ては生活のデザイン

 娘が小学校に入学し、明らかに以前に比べて楽と感じる部分が多くなりました。

 娘が3歳までの育児は今考えてもカオスでした。初めての子どもであり、自分には何も引き出しがなく、どうしていいか何も分からず、常にいっぱいいっぱいの状況の中で、試行錯誤の連続でした。

 そこから考えれば、今はある程度想定できる範囲に収まっているという感覚があるので楽と感じる訳ですが、それは、これまで培ってきた娘とのやりとりの積み重ねの結果のような気がします。

 そして、小さい頃の育児と現在の子育ての中で共通している課題があります。自分の気持ち、特に不安や怖れとどう折り合いをつけながら、娘と対峙していくかということです。

 

 娘に寄り添いたいという思い、その障害となるのは自分自身の怖れや不安でした。子育てとはこうあるべきという言説に影響され、こうしないと他の娘と比較して遅れてしまうのではないかなどと不安に感じていました。それらに押しつぶされてしまい、つい娘を安易にコントロールしようとしてしまう。娘は敏感に察知し、反発する。結果として娘に寄り添うことが出来なくなっていました。

 その自分自身の怖れや不安に気付き、そこに気付きながら娘に対していく、コントロールする気持ちを手放していくことが、少しずつ出来るようになっていったのです。

 

 例えば、スーパーで欲しいものがあって、どうしてもこれが買いたいと駄々をこねる。大声を上げたり泣いたりすると、周囲の目が気になってつい大声を上げてつれていこうとする。「帰ってアンパンマンのビデオを見よう」「今後○○を買ってあげる」など、何か他のもので誘導しようとする。これらを繰り返していると、娘は、何かと引き換えでないと言うことを聞かない態度を学習してしまいます。

 その時に、自分の心の内を見つめる。「周囲の人にどう思われているんだろうか」、「しつけが出来ない親と思われているんだろうか」、という怖れや不安を見つめる。そうすると、少し心のざわめきが落ち着いてきました。そして深呼吸をしながら、娘を動かそうとすることをやめてみる。

 そうすると、娘の「買ってほしい」という気持ちの奥が感じ取れました。「親に見てもらいたい」、「向き合ってもらいたい」、「不安な気持ちを分かってもらいたい」、など。

 この娘の気持ちの奥に気付くと、「買う」「買わない」という対立の構図がどうでもよくなりました。そういう開き直った感覚で娘に向き合うと、娘の方から歩み寄ってくれるようになりました。圧倒的な信頼感を持って。

 

 この経験は自分にとって嬉しくもあり、大きな気づきをもたらしました。この経験があれば、今後、子育て以外のいろいろな場面でも、自信をもってやっていけるという確信を得られました。

 その後は、子育てを少し俯瞰的に見て、娘と、家族と今を楽しめるかが意識できるようになりました。娘と、家族の生活を一緒にデザインするという感覚を持てるようになったのです。

 

 その時々に娘に求めることはある。でもそれは長期的に娘に身につけてもらいたいことの一部。娘は身につけたいと自ら望んでいる。それを信じて今は土台をならすことが大事。そのためにできることは何か?今は、そう自分に問いかけています。

 

↓ 娘の育児に試行錯誤していた頃の記事です。気づきが生まれた時の気持ちが生々しく書けたと思います。 

hisel.hatenablog.com

 

意識する行動、無意識の行動

 深く考えて行動していると思っていても、翌日には昨日何をしていたのか明確に覚えていない。昨日の昼ご飯に何を食べたのかさえ覚えていないということがおこります。
 その時々に深く考えて行動しているのならもう少しぐらい覚えていても良さそうですが、そんなことはありません。
 これは単純に私の記憶力が悪いとかそういった事なのでしょうか?

 

 車の運転を例にとると、事故がないように注意深く運転したとしても、自分の行動、ハンドルの動きとか、アクセルやブレーキの踏み具合とかミラーをいつどのように見ていたかなど全てに注意を向けている訳ではありません。だから覚えていないわけです。慣れた道などでは更にそうだと思います。極端な話、通った道も覚えていないかもしれません。ということは、自分の行動のある一定の部分は無意識に行っているといえそうです。

自動的過程、統制的過程、認知資源

 人が注意を向けて、思考する能力には限界があります。全ての行動を起こす際に注意を向けて思考していたら、すぐにキャパシティーオーバーになってしまいます。

 だから、手順を知っていて危険なく行える行動については、注意を向けたり思考することなく無意識に行っています。これを自動的過程(システム1)といいます。逆に注意を向け思考能力を使いじっくり考えることを、統制的過程(システム2)といいます。この統制過程を使い思考する時に使う資源のことを認知資源と呼びます。

 この認知資源には限りがあることが知られており、例えば複数のことを同時に行うと、その資源を全て使うことができないのでクオリティが下がると言われています。

 この自動的過程(システム1)、統制的過程(システム2)については、ノーベル経済学賞を受けたダニエル・カーネマンが書いた「ファスト&スロー」で詳しく述べられています。本書では、システム1を使うことによるバイアス(偏り)やヒューリスティック(簡易方略)について述べており、必ずしも合理的でない人間の思考と行動について説明しています。 

 私は、自動的過程(システム1)は人の認知資源節約に大きく貢献しており、バイアスなど性質を十分理解した上で適切に使えば、生活の質の向上につながると考えます。


環境によって、自動過程を使うか統制過程を使うかが変わる。

 先に述べたように、行動する際に以前に経験していて手順も分かっており、危険がないとか、反対に全く先の予想がつかないなど、状況によって自動的過程と統制的過程を使うかが変わってきます。

 私は、性格上先行きをとても不安に感じてしまうので、今後のスケジュールや人との話などをあれこれ考えてしまいがちです。
 それを繰り返していると当日になる前に疲れてしまいます。他のことが全く手に付かなくなることもあります。そして現時点で本当に注意しておかないといけない持参物とか、今面と向かっている人に対する配慮が欠けてしまったりします。
 それは統制的過程を過剰に使い、認知資源が不足がちになっているといえます。また必要な場面で統制的過程を使えていないともいえます。
 これに対して早めに準備をしておく、当日のシミュレーションをして自然に行動できるようにしておく、一定程度やったら「後はこれだけしたから大丈夫」と考え、それ以降は詳しく思いださないように心がけています。
 つまり、あれこれ考えることを少なくするための事前準備をすることで、当日は自動過程が使えるような状態にします。
 そうすることで当日までの不安感を減らし、不必要に統制過程を使わないようにします。それが認知資源の節約にもつながり、もっと配慮しなければいけないことや、深く考えないといけないことに認知資源を投入できるのです。

 

 まとめ

 不安から認知資源を過剰に使ってしまうというのは性格の影響が大きく、その程度は人それぞれだと思います。
 しかし認知資源に限りがあり、適切な場所で使えていないということは多くの人にとっても問題だと思います。認知資源をどこで使うかは、性格だけでなくその時々の状況にも左右されます。自分で意識して切り替えすることは難しいのです。
 だから状況(環境)に働きかけることで、結果的に認知資源を使う場面をコントロールすることが、成果を上げる一助になると思います。

怠惰は個人の資質の問題?

 人間関係で嫌なことがあった時、どんなにやらないといけないことがあっても、そのことが気になって集中できないことがあります。
 また身体がだるくてやる気にならないので、もっともらしい理由をつけて、いつもはやりもしない整理整頓などをしてしまったりもします。
 しかしそんなことをしていると、周囲からはそんな理由は言い訳で、単なる怠惰だと怒られてしまいます。自分自身で解決すべき問題だというのです。
 これが繰り返されると、自分自身でも自分を怠惰で駄目な人間だと感じ、嫌な思いをすることもあるでしょう。
 このようなやりとりは、親子間でもありますし、上司部下などの間でもよくあることです。
 このようなやり取りには何の問題があるのでしょうか。

 

 一番の問題は、出来ない原因を怠惰という個人の資質の問題としていること。そして解決策をその資質を変えることに求めているということです。
 しかし、実際怠惰というのは自分の反応、防御反応といえます。つまり、何かしら外的なものから自分を守っているのです。
 とすれば、防御反応を示している人を駄目だと批判するのは的外れです。何に対して防御反応を示しているのか?またそれに対処する方法は何かを考えた方が建設的でしょう。
 個人の資質の問題として批判している人は、実際は本当の問題点を特定できていない、具体的な対策が分からないから手っ取り早く個人の資質の問題にしてしまっているのです。

 

原因帰属の問題「基本的な帰属のエラー」


 人間には他者の行動の原因を考える際、行為者の内的要因を外的要因よりも重視するというバイアス(偏り)があります。これを社会心理学では「基本的な帰属のエラー」と呼びます。外的要因がどのくらい影響があるのかを正しく推測できないので、仮に外的な影響があったとしても行為者当人の意思によって容易に乗り越えられるはずと考えてしまいます。
 先の基本的な帰属のエラーのように人は外的要素を過小評価し、自分自身の考え方や環境が他の人にも適用されるものと考えてしまいがちです。しかし、人それぞれ置かれた環境は異なっているし、その人が培ってきた思考方法も異なっています。
 だから、その人がどのような環境の基にどのような思考をしているのかは、注意深く見なければ分かりません。具体的な解決策はまずそれを理解した上でないと分からないでしょう。逆に明確に問題点が特定でき、具体的な対策が分かれば、対策について冷静にアドバイスが出来るでしょう。
 もうひとつ、内的要因を重視するのは意識することなく自動的に起こるのに対し、外的要因を考慮し内的要因の貢献度合いを修正する過程、例えば集中出来ない原因を本人の怠惰ではなく周辺環境の原因が大きいと考えることは、認知的負担が必要なことが分かっています。これを社会心理学では属性推論モデルといいます。
 つまり、精神的に余裕がない人は、外的要因をなかなか考慮に入れることが出来ないということです。自分の組織に与えられた目標に追いまくられている上司が部下に指導する時、個人の資質のみを問題にして怒鳴り散らしていること、育児や仕事で余裕のない生活をしている親が子どもに対し、環境を考慮せず一方的に怒っている時などはこれに当たります。
 仮に他者から怠惰が自分の資質の問題のように言われたとしても、必ず外的要因と、そうさせる自分の考え方など内的要因が相まって起こっています。短絡的に判断するのではなく、原因、例えば心身の問題なのか、やり方が分からないなど方法の問題なのか、更には周辺環境の問題なのかを知ろうとすることが必要です。
 更にそのように他者から言われたときに、その他者が精神的に余裕のない状態なんだということを知ることも出来る訳です。
 「ああ、この人は余裕がないんだなあ。」と客観的に見ることが出来れば。少し冷静になれ、原因や対策も正しく見ることが出来るのではないでしょうか。

目先の損失回避の心の動きにどう立ち向かうか?

 保育園に通う子供をもつ僕たち夫婦は共働きであり、平日は僕が仕事の時間をセーブし主に子供の世話をしています。その分、休日に自分の仕事の穴埋めをしています。時間の融通は僕の仕事の方がし易いからです。
 でも仕事を始める段になって、子供が遊びたいと駄々をこねます。妻は僕の仕事の状況を理解しており、外出するなど仕事がしやすい体制をとってくれています。
 しかし、面前にいる子供の悲しい顔を見てしまうと、ついつい仕事の時間を減らして子供と一緒に遊びに行きたくなってしまいます。

 

 大事なことだと理解しているのに、目前の損失にとらわれて行動を変えてしまうということは、よくあることです。これは損失回避に関する人の認知的なバイアス(偏り)のせいと言われています。

 カーネマンとトヴェルスキーが提案したプロペクト理論によると、感じる主観的な価値は絶対的な水準ではなく、それ以前の状態との相対的比較によって決まるといいます。
 具体的には、月収が40万円の人が30万円に減った場合と、月収20万円の人が25万円に増えた場合は、給料の絶対額にかかわらず、前者を損失と後者を利得と考え、後者の方が満足度合いが高いと予想します。
 またプロスペクト理論は、同じ金額の損失の不満足度合いは利得に感じる満足度合いに比べて大きいと予想します。10万円の損失による不満足は10万円の利得による満足より大きいというのです。利得と損失との満足の差は2倍から2.5倍といわれています。
 この理論から考えると、妻のバックアップにより減らされている目先の損失(子供の泣き顔)でも、先の利得(仕事で得られる成果)より優先されているということになります。

 

 このようなバイアスをできるだけ回避する方法も考えられます。
 現在の「仕事をする」結果得られる利得は、相当先にしか得られません。その利得を当面に得られるような仕掛けをするのです。具体的には、仕事をした後に好きなTVを見る時間をつくるとか、美味しいごはんを食べるとか、子供としっかり遊ぶとか。
 また、仕事をするという行動自体に目先の損失が隠れているともいえます。仕事をする環境が暑い、寒いなど快適ではない。仕事をするための準備(机の整理、道具を探すなど)が必要になるなど。これらは身体や心に負担を生じさせるという意味では当面の損失ともいえます。そのような防げる隠れた損失を事前に回避し、できるだけスムーズに仕事に入れるようにしておくのです。
 このように目先の損失に惑わされないようにしながら、先の大きな利得を得られる仕事が出来る心の体制をつくるのです。


 このようなことが出来るのも妻のバックアップのおかげです。これだけ色々苦労をしたのに妻へのねぎらいの言葉を忘れて、くれぐれも目先の小さな損失を大きな損失に変えてしまうことのないように。。自戒をこめて。

自分が楽でいられる人間関係

 今日は娘の参観日に保育園へ行きました。

 平素、たくさん娘と接しているけれど、改めて保育園での娘を見ると多くの成長を見て取ることができました。

 特に周囲の子との関係、自分で相手に働きかけ、そして相手の反応を受けて更に行動していく。それも屈託なく、明るく笑顔で。大きく成長したなあと感慨ひとしおでした。

 これから娘が生きていく中で、人との関係づくりは一番重要だと思います。それを、過剰にも過小にもならず等身大で行えるようになってほしいと思っています。

 一般的な「人付き合いがいい」に向けて肩肘をはらず、自分が楽でいられるような等身大な人との付き合い方をしてほしい。そう思えるのは、親である私自身が出来ていないからでしょう。

 だから親としては、方法の押しつけでなく、それが上手くいかない時に自分で試行錯誤が出来るだけのエネルギーを娘に注入することをこれからも意識していこうと思います。

 台風一過の晴れ間の中、すがすがしい気持ちで保育園を後にしました。

「7つの習慣」の本質とは何か?

私が考える7つの習慣の本質

 私が考える7つの習慣の本質、それは「インサイド・アウト」の考え方です。
 対人関係を含めた社会との関係において、外からの要請にどう答えるかが常に求められています。例えば、営業目標の達成、試験への合格、友人関係など。
 外部からの要請に対し、自分を抑え、自分をなくすことで対応してしまっています。
 しかし、自分を抑えたり自分をなくしてしまい社会の要請に応えても長続きしません。結果として自分を壊し、社会との関係も壊してしまうことになりかねません。
 外である社会が主体ではなく、内である自分が主体。自分が何を優先して、何を重視しているのかをまず知り、それを原則とする。
その原則を前提とし、社会と適切な関係を築くのです。
 自分の原則を中心とする生活とは、自分本位の生活とは違います。自分本位の生活とは、周囲のことを全く顧みず、自分のやりたいことを周囲に押しつけることをいいます。
 自分の原則を中心とする生活は、言い換えると「自分を大切にした上で周囲を大切にすること」です。自分を大切にしているからこそ、周囲を本当に大切にしているといえるのです。
 社会との関わりにおける何かしらの問題は、外部に問題があると考えるより自分の原則を再度確認すること、そして外部との関わり方を見つめ直すことが先決です。
 原則中心の生活は自分を大切にすることなので、自尊心を高めることにもつながります。
 自尊心が高ければ、失敗など困難から立ち直ることもできるし、次の一歩を踏み出す勇気も生まれます。
 社会に振り回され自分を失いがちな現代で、まず「周囲を大切にしろ」と求められるのは酷なことです。そうではない、まず自分を大切にすることから始めようというのが、「インサイド・アウト」の考え方なのです。

「7つの習慣」に足りないもの

 「7つの習慣」に足りないもの、それは2つあると思います。
 まず一つ目は、どうすれば実践できるかについてはあまり述べられていないということです。
 これらの習慣は大切だという事はよく分かるが、実践はなかなか難しいのが現実です。
 自分の生活にどのように適用していくか。適用する際に何が問題となるのか?それは人それぞれです。
 言い換えると、周囲との関係、自分自身をどのように理解しているか、その認知プロセスが人それぞれだから、7つの習慣の適用の仕方も人それぞれだということです。
 その認知プロセスを知る意味で、自己の観察はとても重要です。
 行動の観察、感情の観察、身体の観察、これら自己の観察を踏まえて7つの習慣をその人に合った形で適用させることが出来ます。
これらのことは、更に深めていけると思います。
 二つ目は、それぞれの習慣の大切さを伝える中で、「あるべき」論と誤解されてしまうということです。
 先に述べたように、それぞれの習慣の大切さは分かるのですが実践ができず、結果、自信を失うことを繰り返してしまいます。
 「7つの習慣が重要だ」という、実践論のない「あるべき」論とされてしまうのです。
 「あるべき」論になると単なる押しつけになり、上手く使えなければ当人の自信を失わせる結果にしかなりません。7つの習慣があくまでツールであるにかかわらず。
 しかし7つの習慣の本質は先のとおり「自分の原則を中心にし、生活を毅然とした態度で行う」ことであり、自分を大切にすることです。
 自分を大切にするというツールを使えこなせなくて、結果自分を失ってしまうという本末転倒なことが起こりうるのです。
 これは本書を注意深く読んでいけば分かることですが、表面的な読み方をしていると誤解してしまう事だと思います。

まとめ

 これら足りないものを補いながら、7つの習慣を引き続き自分自身の行動に活かしていきます。
 そしてこの2つの足りないものについて、今後詳しく書いていこうと思っています。

私が考える「7つの習慣」の本質とは何か?⑦

 7つめの習慣「刀を研ぐ」とは、自分自身の中の四つの側面(肉体的側面、精神的側面、知的側面、社会・情緒的側面)のそれぞれを再新再生させることです。
 これら四つの側面を、定期的に、一貫して、賢明に、バランス良く磨き、そして向上させることです。これは、自分自身に投資するということです。

 まず、肉体的側面で刀を研ぐとは、自分の身体を大切にすることです。 バランスのとれた栄養のある食事をとり、十分な休養を心がけて、定期的に運動することです。
 よい運動のプログラムは、家で実行できるものであり、身体を持久力、柔軟性、強さという三つの側面で鍛えるものです。

 次に精神的側面は、人生に自己リーダーシップを発揮することです。
精神的な側面とは、自分の核であり、中心であり、価値観に対して決意すること。これを再新再生することで、新たな意欲を生み出すのです。

 知的側面を再新再生するということは、自覚を持ち、自分の頭の中のプログラムを客観的に見つめる能力を身につけるということです。
 知識を得るだけだはなく、仮説を設定し、自分で考えることが大切です。そのために必要な行動は、読書、書くこと、スケジュールや計画を立てることなどがあります。

 社会・情緒的側面を再新再生することは、第四、第五、第六の習慣と深く関わっています。
 具体的には、普段の生活の中で、ほかの人と接する活動を通じて常に行っていくものです。答えるために聞くのではなく、相手のパラダイムを深く徹底的に理解するために感情移入の傾聴をするのです。
 社会的側面と情緒的側面は、互いに結びついているといえます。なぜなら、私たちの情緒的側面は、基本的にほかの人との関係によって育成され、表現されるものだからです。
 しかし、これは労力のかかるものです。なぜなら、多くの人が第四、第五、第六の習慣を実行するのに必要な私的成功のレベルに達していないか、必要な公的成功のスキルを身につけていないからです。
 第四、第五、第六の習慣を成功させるのは、知力より、主に情緒的側面であり、自分の内的安定性と自尊心です。
 情緒が不安定な人は、いくら知力が優れていても、生活の中で大きな問題に直面し、その問題について違う考えをもっている相手と接した場合、第四、第五、第六の習慣を実行しようと努力したところで、相手の相違点を大きな脅威に感じてしまい、どうしても本当の相乗効果を生み出すことができません。
 自分の内的な安定性は、自分の精神と心に深く根付いた、正確なパラダイムと正しい原則に従って生活することからもたらされるのです。
 ここでいう「正しい」とは、自分にとって「正しい」ということであり、第二の習慣と連動している。自分の価値観を体現した生活を送るということが、内的な安定につながるのです。 

 これら四つの側面を再新再生することを自らの時間に組み込んで始めて、それぞれの習慣が機能するといえます。その意味では、この「刀を研ぐ」が最重要事項だと認識できるかが鍵ともいえるのです。